第二十一番 叡福寺

聖徳太子御廟所、通称上の太子。羽曳野の野中寺(中の太子) 八尾の
勝軍寺(下の太子)とともに 太子信仰が息づく寺院。

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第二十一番札所

法語=篤敬三宝

◆大阪府南河内郡太子町太子二一四六  TEL072(198)0019

三骨一廟

聖徳太子自らが廟地として選定した磯長廟は叡福寺境内の北側にあります。叡福寺は推古天皇三十年(六二二)、太子の母、間人大后の眠る御廟に、太子と妃の菩岐々美郎女が合葬された折、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟守護のために僧坊十烟(墓守の家十軒)を置いたのが始まりといわれています。

円墳の御廟石室の中央正面に間人大后の石棺が安置され、その前面東側に太子、西側に太子妃の棺が並べられる三骨一廟です。これは弥陀三尊、即ち母后を阿弥陀、太子を救世観音、妃を勢至菩薩になぞらえたものです。

伽藍大成

その後聖武天皇の勅願で、神亀元年(七二四)七堂伽藍が完成しました。また平重盛等により修補されますが、天正二年(一五七四)兵火のためすべて焼けてしまいました。

のちに豊臣秀頼が勅命で聖霊殿を再建し(慶長八年 一六〇三)、続いて現在の諸堂が造られ、伽藍様式を今にのこしています。石段を上り、南大門を入ると眼前に二上山を借景にしたという広大な境内のパノラマが開けます。

重要文化財の多宝塔、聖霊殿をはじめ金堂、宝物館、浄土堂、上の御堂、念仏堂、弘法大師堂、経蔵など、太子信仰を偲ぶ数々の建造物と寺宝が拝観できます。そして中央奥の石段をさらに上ったところに松や常盤木に囲まれた太子廟があります。

救世観音の化身

日本仏教の祖とされるところから、太子が亡くなったあとも、多くの聖人が太子廟を訪れました。空海、親鸞、良忍、一遍、日蓮など各開祖の記念物が今なお山内に残っています。なかでも親鸞の生涯は太子の信仰と共にありました。十九歳の春、修行に行きづまって苦悶し、太子廟に参籠したところ、太子が救世観音となって現れ、真実の道へ導かれたということです。

対立融和―
太子の思想の普遍性

聖徳太子が書いた「十七条憲法」は今日もなお新鮮さを失わないばかりか、その思想や正義の相対性についての認識を説く「和の精神」は、対立が激化する今の社会によりいっそう求められるべきものではないでしょうか。「神仏混淆」という、世界に誇る日本の宗教哲学は太子の「和の精神」―美しい日本の心―が原点となっているのです。

叡福寺の建造物と寺宝

聖徳太子御廟(明治十二年より宮内庁管轄)

東西に長い円墳(径五四・三メートル、高さ七・二メートル)。横穴式石室で、太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・菩岐々美郎女の三体を合葬した三骨一廟です。

聖霊殿(重要文化財)

太子堂とも呼ばれ、聖徳太子十六歳植髪等身の像が祀られています。この像は後鳥羽天皇が文治三年(一一八七)、宮中にあったのを下賜されたもの。建築様式は桃山末期の特徴をもっています。

南大門

天正二年(一五七四)の兵火に焼かれ、慶長年間に再建されましたが、腐朽のため昭和三十三年に再々建されました。左右に金剛力士を安置。

多宝塔(重要文化財)

承応元年(一六五二)、江戸の三谷三九郎の再建。本尊は東面に釈迦・文珠・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置し、四本の柱には四天王の像が描かれています。

金堂

享保十七年(一七三二)に再建。本尊は高さ九〇センチの如意輪観音坐像。両側の脇侍は不動明王と愛染明王で、ともに弘法大師作と伝えられています。なお金堂本尊の拝観は寺務所へお申し込みください。