第一番 大聖勝軍寺

日本仏教の祖、聖徳太子の偉業を偲び、物部守屋との悲惨な古戦場跡に思いを馳せる真言宗寺院。

第一番札所

法語=以和為貴

◆大阪府八尾市太子堂三ー三ー一六  TEL072(922)3000

大聖勝軍寺山門 大将軍寺つつじ

寺の呼称と地名の由来

当寺は聖徳太子が建立、神妙椋樹山大聖勝軍寺といいます。またの名を野中寺・願成就寺、俗に下の太子、むくの木寺、または太子堂と呼ばれています。

敏達天皇の時、大臣蘇我馬子をはじめ仏教を信ずる者が多い中、物部守屋は蘇我氏との勢力争いもあり、強くこれに反対しました。

守屋は阿都(八尾)に本宅を構え、矢作部、弓削部など弓矢を製造する職人を配下にもち、軍備を増強する一方、物部八十氏といわれ、その勢力を誇っていました。(矢作りの生命は「矢の尾」にあり「矢尾」を「八尾」と呼ぶようになります。)

椋の木の奇跡

仏教伝来をめぐり、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が対立、守屋の本拠(渋川の館)を中心に、河内一円を鮮血で染める激戦となりました。用明天皇の命に従い、馬子とともに仏教を広めようとしていた当時十六歳の聖徳太子は自ら兵を率いて参戦します。

しかし強大な兵力を誇る守屋の前に三度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥りました。まさにそのとき椋の大木が真っ二つに割れ、その幹の空洞に身を潜めた太子は九死に一生を得ます。

起死回生を誓った太子は恩樹椋の木で自身十六歳の像を刻み、自ら黒髪を断ち切り植髪しました。そして椋の木を取り巻くように茂っていた白膠木で四天王の像を刻み、馬子以下四大臣を四天王に見立てて各々頭髪に戴かしめ、必勝の誓願をたて、ついに守屋を倒したのです。物部守屋の首と遺躰は二つの塚にわけて葬り、丁重に供養されました。

菩薩半跏思惟像(伝、如意輪観音像)大阪府指定文化財。植髪太子堂
菩薩半跏思惟像(伝、如意輪観音像)
大阪府指定文化財。
大将軍寺太子の像
観音堂横から
植髪太子堂
寺の概観・所蔵品
大聖勝軍寺のおもな行事